父と共に戦った全日本
2011年アームレスリングを本気でやろうと決め2012年の全日本チャンピオンを目指し練習を始めた。
母や姉は、「今はまだ子育て中だからチャンピオン目指す時期じゃない」と反対だったが父や主人や子供達は応援してくれるようになり父はアームレスリング台を誕生日プレゼントに買ってくれて、実家の駄菓子屋にアームレスリング台を置いて父と練習をはじめた。
師匠がいる岡山までは交通費もかかるし月1回しか練習に行けないので父がいつも練習に付き合ってくれた。
父は昔、柔道やっていたし腕力がありとても強かった。
私との練習もとても楽しんで受けてくれた。
でも数年前に癌が見つかり、だんだん体力は落ち、腕力も落ちていった。
それでも父は一生懸命筋肉が落ちないようにダンベルで鍛えたり握力をつけたりして私の練習に付き合うとしてくれた。
はじめは全日本チャンピオンという肩書を持った人生を歩みたい。と思い、はじめたアームレスリングだったけど
父に必ず全日本チャンピオンになってメダルをプレゼントする
と心に決め、岡山の宮本師匠のところに指導をうけ、アームレスリングを一から握りやフォーム、そしてアームレスリングに特化したトレーニング方法を身につける為に必死で通った。
そして大阪に帰ってから習った事を忘れないように握りやトレーニングをやりこむ日々だった。
6月の全日本を目指し、追い込んで練習をしていた4月20日ごろ岡山に練習に行っている時
「父の体調が悪いので今すぐ病院に連れて行ってほしい」と母から電話があり気が動転していたら
次は父から電話があり
「大丈夫やから急いで帰って来なくていい。帰ってきても今日は病院は休みやから。練習頑張って!」と電話が入った。
いつも心配性の母だったので父の言葉を信じ「早めに帰るわな。」
と言って練習を終えてから実家に帰った。
すると父の様子は全然大丈夫ではない状態だった。
娘と母が心配そうに父のそばで見守っていた。
父は「息がしにくいねん」とずっと洗面台の前で座りこんでいた。
「全然大丈夫じゃないやん!今すぐ病院行こう」と私が言っても「今日は病院休みやから月曜日になったら行く」と言って救急で行くのを嫌がった。
でも月曜日まで耐えれる状態ではなかったので救急車は嫌がったので車で病院に向かった。すぐに検査を受けた結果、肺炎をおこしていて肺が真っ白だった。
父は昔から弱音をはかないし、人に弱ってるところをみられたくない!と言って呼吸器もって歩くのも嫌がったし、車椅子とかも絶対乗らないって言って強がってた。
そんな父とわかってたのにどうして父からの電話の「大丈夫!」って言葉をまに受けてしまったんだと今でも凄く後悔している。
すぐに集中治療室で処置をしてもらい次の日はお昼ご飯が食べれるまで回復した。
このまま良くなって退院してくれるものだと信じていたのに、悪化していった。
心肺停止状態に何度もなった父に必死で「チャンピオンになるって約束したんやん!まだなってないんやから!みとどけるまでがんばって!」
っていったら「うん!うん!」ってうなずいてくれた。
父は何度も何度も生きようと最後まで反応してくれた。
4月25日父は亡くなった。
最後まで強く優しい父だった。
お葬式が終わり、いろんなさみしさや後悔が込み上げて(チャンピオンなんか目指してなかったらもしかしたら父の体の変化にもっと早く気付いてたらこんなことになってなかったかもしれん。)と思った。
自分はなにをしてたんやろうと自分を責めた。
こんなことになるなら
チャンピオンなんか目指さなかったらよかった…って思って全日本出場を辞めようと思った。
でも、今までチャンピオン目指してたことに反対してた母や姉が「一番チャンピオンになって欲しがってたのはお父さんやで!
それをここで諦めたらお父さん、悲しむ!絶対諦めたらあかん。チャンピオンならなあかん!」って言われた。
主人にも「なにがなんでもチャンピオンになれ!」と言ってずっと泣いてばかりだった私に前をむけるようにエールをおくり続けてくれた。
そしてギリギリまで出場を迷った全日本。
父のソウルジュエリーを身につけ一戦一戦、戦う前に握りしめ、ポケットに入れた写真をたたき一緒に戦った。
結果、初出場.初優勝.MVPまで頂き父との約束を果たしチャンピオンになることができた。
本当に嬉しかった。
本当に一緒に戦ってくれた。
凄い力をもらえた。
あれから7年間ずっと父のソウルジュエリーと共に戦い、毎年全日本のメダルは仏壇の前に飾って報告し続ける事ができた。
私がアームレスリングチャンピオンだと知らないまま亡くなった事が今では信じられないくらいそばで見守り喜んでくれていると感じている。